夜と霧 を読んで

夜と霧
夜と霧 新版

不屈の名作とされ、人生一度は読むべきとも称される『夜と霧』を読んだ。心理学者であるビクトール・フランクルの書だ。

本著は、第2次大戦中のユダヤ人強制収容所(ユダヤ人以外もいた)に収容された人々の観察を通して、人間とはなにか、生きるということはどういうことかに迫った、残酷でありながらも力強さを持った本である。その魅力は、著者自身、収容された人々の中にあり、文字通り地獄のような日々を送ったからこその生々しい苦しみと、それを心理学者としての冷徹な目で観察しているという2つの相容れない軸が、同居しているからこその緊張感だと思う。

不愉快きわまりない収容所の環境や、飢餓、病気、栄養失調、疲労などでバタバタと死んでいる状況。そのような状況に人を追い込み、さらに精神的・肉体的苦痛をあたえていく管理者たちは、同じ人間とは思えない、いやむしろ人間らしいといえるのかもしれない。詳細は、ぜひ読んでみてほしい。

さて、本著のテーマの一つが、「どんな過酷な状況にあっても、人間として生きるという選択ができる」ということだと思う。

多くの人が、残酷な環境の中から、自分と自分の心を守るため、モラルを失い、全てに無感覚・無関心になっていき、目からは精気が失われ、生きた屍となっていく。そのような人たちは実際に早く死ぬ。ただそのような環境の中でも、心の奥で生きる希望を持ち、環境に屈しず、苦しみを受け止め、生きるという選択をした人がいた。そのような人たちは、しっかりと自分の人生を「生きた」のだ。

そこで、先日読んだ、「選択の科学」にて取り上げられていた<小セネカ>の言葉を思い出した。

「隷属状態が、人間の存在全体におよぶと考えるのは誤りである。人間の大切な部分に、隷属はおよばないのだ。たしかに肉体は主人に隷属し、捕らえられているかもしれないが、精神は独立している。実際、精神はきわめて自由で奔放なため、肉体を閉じこめている監獄でさえ、それを抑え込むことはできないのだ」

肉体的自由がなくとも、人間は精神的に自由でいられる。奴隷制が基本だった世界では、フランクルの到達した価値観は基本的なものだったのかもしれない。しかし、それは、非常に心強い言葉である。どのような環境であっても、自分が自分の人生を生きるという事を選択することができるのだ。

なに不自由の無い生活を送っている人でも自分の生を生きていない人がいる。環境に隷従し、ながれるままに生きている人は多いはず。「選択の科学」によると、野生のアフリカゾウの平均寿命は56歳だが、動物園で生まれたアフリカゾウの寿命は17歳らしい。毎日定期的に餌がでてきて、捕食者に脅かされる必要もない環境であるにも関わらず、動物園の象のほうが、圧倒的に早く死ぬのだ。その原因が、自己決定ができないことによるストレスにあると著者のシーナ・アイエンガーはいう。

自己決定感の欠如は、無気力へとつながり、生きる屍として過ごしたのちに、死に至る。一度、自己決定感の欠如、つまり自分の力ではどうしようもないという心理状態に陥ると、まわりの環境が変化したとしても、それに気がつかず、その無力感という絶望にとらわれ、自ら救われる機会を逃す事になる。死ぬまで。

人の生死をわけるほどの力をもつ自己決定感の有無であるが、実際に人の健康にもっとも影響を及ぼしたのは、実際に自己決定権の大きさではなく、自己決定ができるという認識をもっているかどうからしい。それが、大きな差を生むのである。

たとえ、アウシュビッツのような悲劇的環境に置いても、自らの人生を生き抜くことができる。それは、自分の人生を生きるという選択は、誰も奪うことができないからである。どんなに身体的自由を奪われていたとしても自分の生を生きることができ、苦しみという感覚でさえも生きるということの一部となるのだ。どのような環境も、力も自分の生を奪うことはできない。

自分の生を生きるという選択をすることは、何不自由無い生活を送る多くの人にとって、当然の選択肢と思われており、ないがしろにされがちだと思う。半分、生きる屍のような人生をおくっている人が多くいるのではないか。でも、選択することができる。アウシュビッツを生き抜くような力強い生を、生きることができるのだ。決して環境にながされて、自分を殺してしまわないように、積極的に自分の生を選択すべきだ。それは、心の中のちょっとした違いだけれど、かなり大きな変化をもたらすと思う。自分の人生に対する自己決定感。すべては選択できるのだ。

「そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかで、どのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた」

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」

「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」

「自分が「なぜ」存在するかをしっているので、ほとんどあらゆる「どのような」にも耐えられるのだ」

本書では、愛する人、希望などが生きるよりどころとなる、「なぜ」存在するのかに答えるうるものとされている。それだけではなく、生きるということでうけるあらゆる義務をひきうけることが生きるということとされる。しかし、自分の人生を生きるという選択をした、という覚悟、決断がその前提にある。それほど、「選択」というものの持つ力はすごい。

夜と霧 新版

<ヴィクトール・E・フランクル>

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