先日感想に書いた『夜と霧』の中でも大切なテーマだった、「選択」という行為。本書では、その選択という行為を、心理学的、社会学的、倫理学的側面から検討した書だ。自己決定が過保護に推奨され、お店を覗けば、過分な選択肢が溢れ帰っている今日において、選択という行為について考えてみることは、社会や自分の人生を落ち着いて見直すことにも繋がる。
『夜と霧』では、アウシュビッツのような極限状況に置いても、人間は、自らの人間性や「その生を生きる」という覚悟をすることができるということがわかった。
本書において「選択」は、選択する人が所属する社会の価値観(道徳観や人生観)や、認識上の思い込み(自己認識や偏見、バイアスなど)、認識下の刷り込み(五感や印象、広告操作)により規定され、さらに人の認識能力上の限界によって選択肢を処理することができる許容範囲が認められる。また、選択するという行為には責任が伴い、ときには人生の大きな負担となる。逆に、『夜と霧』のように、未来を切り開いていくための力強い武器ともなる。
自分の好きなように選択できるという意識は強い欲望によって支えられており、自分が選択できないという無力感は、大きなストレスを生み、寿命を縮めるほどのものである。それは、実際に選択できるかどうかに関係なく、自分が選択できるという認識があれば、充たされる欲求である。これは、『夜と霧』の感想においても取り上げた。
本書では、上記のように選択を様々な角度から検証することで、「選択肢がある」ということは良いこととはかぎらないということ。「選択肢の数が多い」ということも良いこととは言い切れないということ。また、「全てに自分が選択する」ということも絶対的に良いということはいいきれないという、いわゆる一般常識的な思い込みに疑義を唱えている。
この選択肢が溢れた世界で、常に選択し続ける人生を歩む我々にとって、選択というもの自体を知ることは非常に有意義だ。本書で明らかになったように、無意識に選択を絶対的な価値ととらえていくと、意図せざる不利益を被る可能性もあるのだ。度重なる選択の中、ときには、専門家に選択を委ねることが自分を守ることにつながったり、大きな運命や偶然というものへ目を向けることも必要になるかもしれない。
選択肢があるという誘惑に振り回されないように、もっと選択という価値に距離をおいて、自分を大切に、そして自分や事実と真剣に向き合いながら、選択を行っていくことが求められる。自分という存在自体も、常に自分へ求めるイメージと他者から得られる印象や自分の選択によって、常に塗り替えられ、みずから調整しながら作り上げていくものとされている。
毎日の小さい選択が、自分を作り上げていくといってもいい。自分の望む自分へ、選択を行っていく。小さな自己決定が、自分の人生のコントロール感を生み出し、それは自分の人生の満足感へと繋がる。
また、選択をするとき、改めて、
①それは自分にとってどのような価値があるのか
②その価値は誰が、どのように決めたものなのか。
③その価値は、本当に自分が欲しいものなのか。
④本当に欲しいものは何か。
⑤そのためにすべき選択は何か。
⑥それ以外に選択肢は無いのか。
⑦その選択をするうえで自分以外に有効な答えを出せる人はいないか。
という流れで考えてみたいと思う。
そして、必要の無い選択は、ハックしていきます。
人生、マーケティング、教育、などなど人に関わることがら全てに適用できる、示唆に富む良書でありました。
ちなみに、著者のシーナ・アイエンガー氏は、盲目であり戒律が厳しいシク教徒。その彼女が、幼いうちにアメリカに渡り、選択肢絶対主義国であるその環境への違和感から選択ということを研究するにいたったとのこと。だからこそ生まれた書。なので、本書では、単なる科学的成果の発表におさまらない、彼女の人生そのものを覗き込むような、独特な空気感をもった書でした。
<シーナ・アイエンガー>